責任の重さ
どうも、また私です。
ちょっと書き留めたいことがあったので、
乱雑に投げるかのように書き殴ります。
最近「責任」「責任」とよく言われます。
責任てなんだ?
責任感が無い、だの
もっと責任持って!だの
私たちは結婚式やその二次会を提供してる人間。
形の無いサービスを提供してるのだが、
それ以上に形がなくその他大勢の人間の価値観により決定される自己犠牲をしないといけない塊のような錘のような、そんなものを持たせるな!、と思ったわけです。
言い方が不適切だが私はマキャベリストだ。
目的の為なら手段など選ばず、
他人を上手く利用しのし上がってきた人間だ。
そんな人間に「責任感」など毛頭なく、
大して危機感もないのだ。
結論、仕事を振らないで、面倒くさいから
ということ笑
はー!明日は休み!
ちょっとボードしてきます!
またそれはTwitterで
それでは
会話という定義について
唐突ではあるが、
会話というものについてふと考えてみたい。
私はよく上長から、
「お客様と喋りすぎ、もっと会話をしなさい」
と指摘を受ける。
この事象について今まで漠然と考えていた。
どう違うのか考えるだけでなく、
文字に起こして文章として置いておきたい、
と思い無い脳みそを使いを書いている。
会話とは何なのだろうか。
私個人としての見解は、
会話≠お喋り だ。
これは、
好き≠嫌い や
言う≠伝える
といったニュアンスと同じだと、
捉えて頂ければ幸いだ。
詳しく掘り下げていこう。
お喋りと会話の決定的な違いは、
そこに生産性があるかどうか、だと一つ考えられる。
例えばお喋り。
楽しくお喋りしても、
至極小さな知恵や浅い知恵しか得れない。
何故なら楽しいから。
楽しいという事に脳みそを使ってしまうから。
では会話はどうか、というと、
楽しいがそこには生産性があるもの、だと思う。
例えばプレゼンで実際に新郎新婦とお話をしていると、
ラポールの構築や、新たな情報、お客様のニーズなど、
会話をすると収集できるからだ。
ではお喋りはただ楽しむためのツールにすぎず、
そこから得られるものは至極限られている、ということなのだろうか?
お喋りと会話の線引は人それぞれであり、
また、感じ方だって違うだろう。
何が生産性のあるものなのか、
何がお客様にとってのニーズなのか.....
........考えると頭の中が混在してきそうだ。
知恵熱が出そうだ、そろそろおしまい笑